2015年1月31日(土) 第28回 あの懐かしの授業をもう一度(10) 

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第28回 あの懐かしの授業をもう一度(10)報告

2015年1月31日(土)

講師:関 榮義(せき しげよし)先生(旧職員)

「様々な出会いにより教師の職を得、生野高校にて先輩教師そして生徒に育てられ、
“天職”となった教員生活を振り返る」

<はじめに>

 開口一番、先生の口から出た言葉は、「自分は劣等生だった。そんな自分が様々な出会いにより教師の道を歩み、よき先輩、生徒によりすばらしい教員生活を送ることができた」との感謝の言葉がありました。「劣等生」という言葉に、講義を聞いている同窓生一同、違和感を覚えたと思います。しかし関先生が生物の教師として、またその後の教頭、校長へと歩む教員生活は決して順風ではなかったのでした。

<教師への困難な道>

 高校卒業後医学部を3度受験するも失敗。二浪の末、信州大繊維学部(養蚕)に入学、大学では授業料免除を受けるなど苦学の末、卒業。しかし、就職が決まらず、大学に実習助手として残る。昭和35年、岐阜のミッションスクールにて教師生活をスタート。関先生誕生です。その当時、先生は生物の実習テキストを自らガリ版で製作されたそうです。見せていただいたテキストには植物の構造や動物の各種器官の様々な図が描かれていました(写真右:自作テキストのハマグリの図解)。
 スケッチは観察力を高めるとの経験から、我々生高生も授業で顕微鏡をのぞきながら点描を行ないました。皆さん覚えているでしょう。

<生野高校赴任>

 生野高校には昭和39年19期生から生物教師として教壇に立たれました。西澤先生(生物)、金子校長も信州に縁のある先生方で、ご縁を感じられたとのことでした。いつも「一生懸命勉強しろ」が口癖だった西澤先生からは、教師としての基礎を指導して頂いたそうですが、特に興味を受けたのが、生徒が受ける実力テストを、関先生がモニター実施していたとのことです(100点を取れたかについての言及はありませんでしたが…)。
 12年間の生野時代での数々の思い出の中でも、私自身も関わった、制服自由化問題のお話がありました。生徒自治会が求める自由化に対して、学校側代表として自治会に向き合い、多くの議論が続いたそうです。私の属する26期2年6組はクラス決議で1週間の自由化実施を決議、私も私服で通学しました。しかし先生のもう一つの城である、生物クラブが活動する実験室には私服では入れませんでした。当時の私は、服装は自由なのだから、制服を着るのも自由との解釈で、クラスの仲間から非難されつつも、クラブには制服に着替え入室したことを覚えています。
 そして、受験に専念すべく自治会を引退する当時の副会長(26期)からの手紙をいただいたそうです。先生は、自分(関先生)のことを、議論を通じて客観的視し、真摯に意見を述べてくれたすばらしい生徒だった、この手紙は私の「宝物」ですと、痛みも無く大切に保管されていたその手紙をカバンから取り出すと、感情を込めて全文読み上げられました。26期にはこんな気骨あふれる同級生がいたとは、私自身、誇りに思いました。
 生野高校での思い出話の中で、面白い内容を一つ紹介しましょう。それは、定年制が無かった当時の教員生活の番付データです。

<教員生活BEST3>

  第1位 赤尾先生(英語)⇒ 51年間
  第2位 樺山先生(国語)⇒ 44年間
  第3位 磯田先生(保健)⇒ 43年間

<最後に>

 関先生が学生時代の目標である医師になられたとしても、患者目線で対応される立派な医師になられたと考えます。しかし、私は受験に失敗し、生物の教師となられたことを心から感謝したいと思います。それは、私にとって、生物の授業並びに生物クラブの顧問として、在学中は勿論のこと、卒業から現在に至るまで親交させていただいている尊敬できる数少ない恩師の一人が関先生だからです。すばらしいお話ありがとうございました。
 また来年の正月もご自宅に生物クラブの仲間達とお邪魔します。

(高26期 生物クラブ 川上 善信)